今週のコラムお題への模範的回答は、「生徒の皆さんのお役に立てたことが実感出来た時」なんだろうけど。私も人間なので、それはそれでもちろんとても嬉しい。
誰かが検定試験や入試に合格したというお知らせを聞くと、その人が頑張った成果がそのような結果に出たことに大変幸せを感じる。
けれど、そういう気持ちを感じることが、一番良かったことというと、実はそうではない。
私にとって、講師をしていて一番良いと感じることは、私自身にいつもイタリア語の勉強を強制出来るという事実である。
私は怠け者なので、イタリア語の検定試験に受かれば、特別な機会がなければ更にイタリア語の精進を続けることはないと、受かる前からわかっていた。そこで、「CILSに受かれば教えていいっていうし、イタリア語講師になってみようかな」と考えた。講師になれば否が応でもイタリア語の勉強を続けるだろうと予想したからである。なのでCILSに受かってすぐ、講師を出来る場所がないか探していた結果、Cafetalkと出会い、イタリア語のレッスンを実施するようになったのである。
果たして、その目論見は当たっていた。
人に教えるということは、自分がわかっているだけでは足りない。
わかっている事実を人に伝えられなければ、話にならないのである。
レッスンでは、受講してくれる人々に、毎日必ず一行でいいのでイタリア語作文をするようにお願いしている。人にいう以上は、自分も実践したいので、検定試験対策中から続けていたイタリア語日記を、講師になってからも毎朝書いている。
アウトプットだけではもちろん足りないので、もともと本好きなのもあり、読書は欠かさない。読書はともかく、日記は我ながらよく続いているものだとも思うけど、これも実は文房具好き&ノート好きなのと、メモを取るのが好きという性格が助けてくれているのは大きい。
イタリア語の勉強を続けるのは、講師としての責任からだけではない。
ミラノでの最初の音楽学校でのある先生が仰った、
「君たち日本人は異なる言語域から来ている。イタリアに住んで音楽を続けるなら、一生イタリア語の勉強をしなければならない」
という言葉がずっと胸にあるからである。もしかしたら、これが一番の理由かもしれない。
というのも、私の興味があることは、イタリアの16世紀17世紀の鍵盤音楽からイタリア語のアクセントと情感を掘り出し、如何にそれを指で語れるかということである。そのためには楽器練習やコンサートをこなすことはもちろん大切だが、音楽解釈のヒントとなる当時の教則本や著作の購読も大いに必要になってくる。それくらいの時代のイタリア語は、綴りも活用も現在私たちが学習する形とは異なるものも多いので、少しイタリア語が出来るくらいでは、読解は中々大変だ。だからイタリア語学習が必要なのである。
と、こんな大きなことを言っておいて何ですが、冒頭でも書いた通り、かなりの怠け者なので、「まあいっか〜」で毎日を過ごしてしまう危険は、今でも大きい。
というわけで、そんな私の尻を叩いてくれる講師という立場は、非常にありがたいものなのである。
回应 (0)