能には「子方」という役割があります。これは子役とは違い、子供の役だけでなく、主人公を際立たせる為にあえて大人の役を子供が演じるという演出です。例えば、源義経を子供が演じることによって、静御前との生々しい男女の情念を避け、ある意味崇高な美しい女性像を描き出すのです。
能の演出の基本は、謡もセリフも舞もシテ(主人公)中心主義で、その他の登場人物は、数だけでなく、動きやセリフも最小限に限定されて通常「舞」も舞いません。およそ90分前後の演目中、まるで静止画のようです。当然子方も同様で、私も本番のみならずお稽古を含めて、これを数限りなくこれでもかというくらい、子供の頃から訓練させられてきたものです。
私が40歳を過ぎた頃でしょうか。師匠が、NHK教育TVで「能楽入門」のシリーズを担当することになり毎回楽しく視聴していたのですが、ある回で次の様なことを解説し始めました。
「子方には全部教えないんです。わざと出番の少し前から教えるのです。そうすることで本番中子方に、いつ自分の出番になるかどうかという気持ちを抱かせ、集中力を持続させ、演技に必要な緊張感をもたせられるのです。」と。
びっくりしました。何故なら、一度もそんな説明を直接受けたことがなかったからです。しかもTVを通して知るなんて。
古いことわざに「人を見て法を説く。」というものがありますが、その人物に備わった器に合わせて、教え方を変えて説明することです。
本質に辿り着く方法は、伝統に則した本流ではなくても、結果としては完成形に限りなく近づければ良しという考え方でもあります。
禅宗では、仏教の完成形である無の境地に至る方法論として、ひたすら経典を学び理解することからのみでなく、原点に立ち戻り、邪念をはらい、坐禅によって真髄に至ろうとするのですが、とかく難解な理論の理解を試みているうちに派生する混乱、誤解、雑念を取り払い、一旦、考えるという行為から離れることで、悟りの境地を体感しようとしているのです。
雑念とは厄介なもので、例えば、未来を期待されたプロ野球のバッターが様々な厳しい球種で攻められたり、はたまた、沢山のアドバイスを受けているうちに、自分の本来の打ち方が分からなくなって空回りして成績を落とし、2軍落ちして引退するということがよくあります。
これは、成長過程での雑念がもたらした悪いお手本で、その中で立ち直ることが出来るのは、そうした試練を乗り越える器を持っている者のみで、まさに受け入れる器があってこそ本当のことが理解できるというものです。まさに師匠は私の器に合わせて、真髄を教えてくださったわけです。
養老孟司が言うように、分かると言うのは、頭だけですることではありません。五感をフル活用しながら時間をかけて「体で覚える」ことです。自転車の乗り方や泳ぎ方などに限らず、単に話すことや歩くことも、人との接し方や社会性も、自分なりの幸福の手に入れ方も、全ての習得は理屈を理解した結果ではありません。
近年の学校において、とかく精神論が強調され過ぎた戦前の教育の反省や反動から、子供の理解や自主性が重要視されて行くうちに、さらには、子供達の自殺や引きこもりなどの問題行動が騒がれれば騒がれるほど、すぐに理解できることが最優先にされ、わからないことや難しいことが悪というような価値観のみが一人歩きして美化されてきたように思えます。しかも即効性が必然で実利的な結果が求められます。
その為、本来なら様々な経験と時間をかけて体の中に習得されるであろう「生きる力」が、新指導要領で評価の対象のなかに組み込まれ、毎時間「生きる力」が身についたかどうかを、教師も子供も頭で確認させられるようになりました。
先日のテレビ番組での著名なコラムニストの言葉を借りるなら、「多様化を目指すことは、沢山の答えを認めることになったし、必ずしも答えが見つかるかどうかも分からないし、答えのないものもたくさんある」にもかかわらずです。
今叫ばれている「SDGs」ですが、目標としてなら素晴らしい限りですが、自然の摂理として持続可能なものなどこの世に存在しませんので、あたかも答えが必ずあるかのように大前提が置かれてしまうと、失敗に終わることでしょう。
何事においても、人として答えを探し求めることは大変素晴らしいことで、私も生涯その姿勢を続けていきたいと思いますが、そこで忘れてはいけないのは、分かると言うことと、頭の中で答えが見つかるということとは、必ずしも一致しないということです。
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