▶「傾聴への道① 絶望の入り口」を読む
昨夜は、夜7時半には寝ていたToriaです。zzz( ˘ω˘ )
9時間寝ました(*゚▽゚)ノ
”春眠“の気持ちよさと
更年期の「疲れをためてはいかん!」という防衛本能が働いている
今日この頃でございます。
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カナダにやって来て、30代~40代半ばまで
心身共に、かなり無理をして仕事をしてきたわたし…
「しばらく眼科のチェックに行っていないな」と、ふと気が付いたのは
長らく勤めた会社から、転職して間もない頃。
今から、7年ほど前の事。
転職してからも忙しい日々ではあったものの、仕事の合間に眼科へ出向いた。
いつものように、コンタクトレンズの為の視力のチェックのつもりだった。
ところが、眼科医の様子が明らかに慌てていた。
そこで、医師から告げられた言葉は信じられない、信じたくないものだった。
「左眼の状態が非常に悪いです。
ここでは、詳しい検査が出来ないので専門医に紹介状を書きます。
出来るだけ早く、専門医に診てもらってください」
眼科に行かなくちゃ!と思ったのは、何かの虫の報せだったのか…
そこから、2日後。
わたしの右眼に映る景色が、歪み、おかしくなっていった。
飛蚊症と言われる、目の前に浮かぶ無数の黒い糸のような物も見える。
わたしは紹介された、角膜網膜専門病院の医師を訪ねると
思っていた以上に、深刻な事を告げられた。
左眼の硝子体に異常がある事。治療法は無く、失明の可能性がある事。
検査をしていってわかった事は、今までだいぶ右眼で補正されて見えていた事。
自分の目の前に見えているものが“欠けている事”に気づけずにいた。
医師は「遺伝性のものかもしれない」と言った。
実は、わたしの母は50代の初めに片眼を失明している。
それも左眼である。
母は右眼の状態も悪く、何とか右眼だけは視力を失わないようにと
いろいろな病院を渡り歩いていた。
わたしは、歯の時と同じように…いや、その時以上に
自分の身の上に起こった事にショックを受けていた。
一瞬にして、見えていた景色が変わってしまった。
歯も、目も、治療法がない。
死ぬわけではないけれど、わたしの気持ちの中では
“それ”に等しいくらいの悲しさでいっぱいだった。
10年近く続いている歯の検査や処置に加えて
わたしには、毎月の目の検査が始まった。
症状が進行していないか…それだけをチェックするための、ものだ。
わたしは、目の事を母に話す事が出来なかった。
たぶん、それを知ったら母は悲しみ
「私のせいかもしれない」と言うであろう。
そう思うと、話す事は出来なかった。
・・・と同時に、思い出したのだ。
母が失明した時にわたしは、
子供だったわたしは
母に何も言葉をかける事が出来なかった事。
何を言えばいいのかわからず、寄り添う事も出来ず、ただオロオロしていた。
母がどんな気持ちでいたのか…
わたしは、遠い日の母と自分を思い出しては
あの時、どうすれば、何を言えば良かったのかと・・・自分に問うた。
もしや今のわたし以上に、母は絶望感を抱いていたかもしれない。
何を思っても、考えても、やはり絶望しかない。
目の前の風景は、霧と塵が掛かったようにしか見えず
わたしのこの「宿命」を思うと、どうやっても前向きにはなれなかった。
George Winston「Longing」(2001)
それまで、生きる事・生きていく事・生活する事に必死になってきたのが
思いもしなかった「病」が目の前に。
これからの自分がどうなっていくのか
どう生きればいいのか、思い悩みました。
この頃、本職の傍ら”傾聴”の仕事もしていました。
でも、わたしにはわからなかった事、見えていなかった物に気づきはじめました。
相談にいらっしゃる方たちに
ただ共感しよう!という
テクニックのような…。
心理学やコーチングのマニュアルにあるような
「そんな事しか」してこなかったのではないだろうか…と。
でも、ここからまだ
わたしは「自分の宿命」というものに、向かい合う事になります。
▶傾聴への道③大きな選択が迫るを読む