最近、養老孟司の『ものがわかるということ』という本を読みました。彼は解剖学者で東京大学名誉教授。著述『バカの壁』の作者です。長年の医師としての経験や大学教授としての学生との交流、そして趣味である昆虫採集などから得た人生哲学は常に明快で、哲学としての初期仏教の言葉を引用していて、日頃もやもやしている私の疑問を、いつもスッキリ晴らせてくれます。
私は世界史の教師として、学校教育の担い手として、過去から現在に至るまでの歴史や教育論に対して、簡単に答えのでない疑問が次々と湧き上がってきます。
何故その出来事が起きてしまったのか。何故人はそれを繰り返してしまうのか。何が望ましく何が望ましくないのか。我々はこれから何をすべきなのか。未来はどうなるのか。
毎日、自問自答し、生まれてくる幾つもの側面からの答えに、どのように向き合い、どれを選択すれば良いのか、自分はそれができるのか、などという葛藤の中、必ずしも正義を実現していない後ろめたさにさいなまれながら、凡人として生活しています。
昔、石森章太郎が描いた主人公たちと同様、「悪の心と不完全な良心」を一緒に持ち合わせたがための悩みを持ってしまう日常です。
人は、生きる中、なにかしらの答えを探しますが、なかなか見つけることができません。そのため世の中には、解決方法を見出すための宗教や哲学、自己啓発形の攻略本がどれだけあふれかえっていることでしょう。そして新学習指導要領では「生きる力」自体の習得が目指され、評価の対象にもなりました。
こうした中で知識偏重からの脱却のために、問題解決能力をいかに学校教育において高めていけるかが、近年の課題であり、そうした事に取り組むことこそが理想とされ美化されてきています。
しかし、どうしてもこうした流れにどこかついていけない自分がいました。そして腑に落ちたのです。養老孟司が指摘する問題点とは、人はいつの間にか五感を軽視し、脳だけで人間は存在しうるかのような幻想に取り憑かれているということで、これを都市化と呼び、頭だけでああすればこうなるはずだということが導き出され、実際の実体験に当てはめることを軽視した状態が加速しているということなのです。
結局、知識偏重から脱却するための方法論もまた、頭で考え出され、解決方法も頭で考えることを要求されていることに気がつきました。
実際に体を使ってではなく、コンピュータを駆使してバーチャルな世界で検証することが賞賛されているではないですか。
これでは彼の言わんとしている「分かる」ということにたどり着きません。五感を通して湧き上がってくる体感や感情こそが、本当に「分かる」ということなのです。
そんなことを教えられた著述でした。
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