「ある」と「いる」は、存外哲学的な問題を含んでいる。古い教科書などでは「生き物」は「いる」を使い、それ以外は「ある」を使うなどの説明をしているが、そうやって教えていると、必ず「木がいる」という文を作る生徒が出てくる。そう、木も生きているのだ。
だが日本語を母語とする者は、「木がいる」という文を作らない。昔『ぼくの地球を守って』というマンガがあった。月基地から地球を監視していた異星人たちが、現代日本に転生して……というSF作品だった。その主役の女の子が植物と心を通わせる能力者で、彼女の歌を聞いた植物は、めちゃくちゃに生い茂る。そういう女の子なら「木がいる」という文を作るかもしれないが。
木は、普通「ある」を使う。「生き物には『いる』を使う」というルールは、つまりここでは当てはまらない。
じゃあ、何が基準で使い分けがなされているのか。
これは、日本語とそれを使う者たちの思想というか、物の考え方を知る上で、とてもいいきっかけになる。
考えてみると、スターウォーズのC-3POとR2-D2は「いる」を使う人が多いだろう。チューバッカはもちろん「いる」。では貞子は? そう、あの怨念にも「いる」が使われる。幽霊も「いる」のだ。じゃあ死体はどうだろう? 時と場合によるなら、その使い分けの基準は何だろう。
さらに言えば、動物は人間に似ているだろうか。外見が似ているとか似ていないとか、そういう部分でも辻褄は合わず、結局動物と人間だけ「いる」を使います。おしまい、と言ってしまえばそれまでだが、なぜ動物と人間と人間っぽいものは「いる」なのだろうか。
ここで死体をしつこく挙げると物騒なので「車がいる」と「車がある」を例に考えてみる。日本語使用者がこの文を使い分けていることに気づいている人はどのぐらいいるのだろうか、と思う。この使い分けを説明できるだろうか。
日本語使用者が「車がいる」と言う時、中には運転手が「いる」。車は運転手によってすぐに動ける状態にあり、車の外にいる者は、運転手とコミュニケーションをとることによって、車がどう動くのかをある程度予測したり、指示したりできる。
一方、「車がある」と言う時は、たいてい運転手はいない。車はただそこに駐車されている物体であり、運転手が来ない限り外から制御して動かすことはできない。レッカー移動などは可能といっても、基本的に車はただそこに「ある」物なのだ。
そう、使い分けの基準は、「人間から見て、コミュニケーションが可能だと思えるかどうか」であると私は考えている。動物は言葉が通じなくても、心を通じ合わせることができる。ロボットやAIとも、人間は疑似的にであれコミュニケーションの形をとることができる。
さらに、コミュニケーションが可能だと「思える」かどうかという話者の感覚が重要だ。死体がかつてコミュニケーションをしていたことを今も実感しているなら、おそらく「いる」を使う。それが単なる物に成り果ててしまったことを表現したいなら「ある」を使う。ロボットでも工業用の、例えば自動車を組み立てる精密なロボットアームに対しては多分「いる」を使わない。
難しいのは『2001年宇宙の旅』に出てくる、人工知能HALだ。大きな宇宙船に組み込まれたHALは、人間としての姿はない。それでいて、自分で思考する力を身につけ、自分の目的を阻害する人間を殺すようなこともやってのける。
HALは「いる」のだろうか、「ある」のだろうか。あの人工知能の狂気は、見た目がただの宇宙船でありながら、人間を凌駕しそうなほどの思考力を持ったことによるズレが原因だったのかもしれないと思うのだ。宇宙飛行士たちは、HALと対話をするよりも、「宇宙船に異常がある」という一方的な思考しかしない。異常があるから強制停止したほうがいいだろうかという、人間と物との関係性から抜け出せない考え方は、HALの『神経』を逆撫でする。
もしHALが今時のゲームに出てくるような人間型の外見をしていたら、話は違っていただろう。『デトロイト ビカム ヒューマン』という現代のゲームでは、人間とほとんど見分けのつかないアンドロイドたちが自我に目覚め、アメリカ南北戦争前の奴隷制度の隠喩さながらに抵抗運動や逃亡活動を繰り広げる。人間型であるなら、こうした物語になるのはある意味自然なのだ。
またスターウォーズのC-3POとR2-D2も、撮影当初は中に人が入っていて、妙に人間臭い仕草だった。その愛嬌がシリーズ全体を通してずっと引き継がれていること、2体が相互にコミュニケーションを補い合っていることが、この2体を人間と同等の存在にしているように考え得る。C-3POが機械的な思考(?)をした時はR2-D2がドツき、R2-D2の電子音はC-3POが翻訳する。まぁR2-D2の方がしっかりしていて、電子音でも単独のコミュニケーションが可能ではある。凸凹コンビの人気は不滅だ。
ちなみに私の妹はR2-D2が好きでグッズを集めている。その中に、本物よりは小さいのだが、ン万円のレプリカが「いる」。そやつはなんと音声認識で特定の言葉に返事をしてくれるのだ。ところが、いかんせん英語にしか対応していない。で、私の英語には返事をしてくれるのだが、妹の英語(日本語ナマリ)には反応せず、妹はこっそり英語を練習していた……。つまり妹にとっては「英語を勉強して話したい」という動機づけになる程度に「コミュニケーション可能である」と思わせる存在であることになる。
教科書に書いてあることを書いてある通りに指導するのも一手なのだが、私は必ずといっていいほど、脱線してスターウォーズなどの話をする。チューバッカは「いる」。じゃあR2-D2は? ターミネーターならどうだろう? オタクの生徒なら話がもっと弾む。スライムは「いる」?「ある」? 指輪物語のサウロンは? メタルギアはどうだろう? ドラゴンは? ファイナルファンタジーのチョコボはどう? ホラー映画でもいい。ジェイソンは「いる」。チャッキーは?? あれは人形に殺人鬼の魂が乗り移った奴だが、動く前と後で言葉は変わるだろうか?
すべては、言葉を発する側が自分の考えをどう表現したいかにかかっているということに、ここで生徒自身が気づいていく。最終的に、表現は自分で選んでいい。植物と心を通わせコミュニケーションが可能であれば、冒頭の女の子のように「いる」を使ってもいい。アンドロイドだって、スイッチが切られてそこに不気味に突っ立っているだけなら「ある」かもしれない。それとも「いる」という感覚だからこそ不気味なのかもしれない。
私たちは言葉を機械のように学習しているのではない。言葉はコミュニケーションの手段であり、本質は人間同士が考えを伝えあうことにある。自分の考えを伝えるために最適な表現は何か。それを自分で考えなければ、言葉は使えないのだ。ただ受身で解答を教えてもらいたいと思っているなら、使い分けはできない。
だから、いつ「いる」を使い、いつ「ある」を使うのかを教えるのではなく、使い分けている人間の価値観を話し合う。すべては人間のコミュニケーションの可能性と意志にかかっている。それが理解できた時、生徒たちは適切に「いる」と「ある」を使いこなし始めるのだ。あらゆる物事に対して、頭の中で例文を積み重ねながら。
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