▶「①絶望の入り口」を読む
▶「②またも絶望、そして宿命」を読む
▶「③大きな選択が迫る」を読む
▶「④母の約束」を読む
毎日、母を見舞う日々が始まった。
その病院は良くも悪くもフレキシブルで、面会時間前でも母と会う事が出来た。
時にはリハビリに付き添い、ご飯の介助をし
面会時間が終わる頃まで、あれやこれやと話をした。
右半身の麻痺を患い、利き手の機能を失った母はしばしば癇癪を起した。
ある時
初めて、わたしは母の泣き顔を
そして、弱音を吐く姿を見た。
「眼もこんなになって、体の自由が利かなくなって、何で! どうしたらいいの。
こんなだったら、生きていてもしょうがない!」
わたしは、ただただ頷きながら聴く事しか出来ずにいた。
でも…“子供として” 言葉を振り絞った。
「お母さん、苦しいよね。
でも・・・それでもわたしはお母さんがこうして生きていてくれた事が
こうして居てくれる事が嬉しいよ」
その日以来、母はわたしにいろいろな事を話してくれるようになった。
それは、母としての時もあり
時折、記憶障害でおそろしく若返った、結婚前の母が出現したり。
とにかく、今まで知る事のなかった”母の内側”を見る、不思議な日々となった。
昭和一桁の生まれ、大人数の兄弟姉妹の長女だった母。
特に、結婚してからはいろんな物事を常に我慢し、苦労ばかりを重ねてきた人生。
とても、幸せがそこにあったようには思えなかった。
母が語る、その話のひとつひとつには悲しさや寂しさや切なさがあり
時折、笑いもあり、
苦笑いするようなシュールでブラックな話もあった。
わたしは、聞き洩らさぬように・・・
そんな思いで「傾聴」し続けた。
母と暮らした幼い頃から20代まで。
わたしにとっての母は厳しく、恐く、疎ましい時さえある存在だった。
およそ、甘えるという事もなく、甘えさせてくれる事もなかった。
それが、私のなかの母だった。
だが、わたしは「今」
母を愛しく思い、すべて受け止め、許していた。
どんなに、わたしが愛されていたか
どんなに、母が家族を大事に思っていたか
すべてを聴き、受け容れ、共感、共鳴した時、母を許し
幸せだと感じた。
そして、母は言った。
「とりあちゃん、こんな風になっちゃったけど…
お母さん、今がいちばん幸せだよ。
だって、ひとりのびのび、こんな快適なところに暮らしているんだもん」
わたしはそれを聴いて、思わず泣き笑いした。
簡素な病院の一室が
今、母にとっては気ままなひとり暮らしの場所になっていた。
本当に、幸せだと思っているのかはわからない。
きっと、わたしに心配させまいと、言ったのかもしれない。
でも・・・
きっと本当に。
母としたら、煩わしい色々な事からやっと解放されたのかもしれない。
一方、母を見舞う日々の中で、わたしたち家族は母の事、介護の事で意見の食い違いが生じ始めた。
とりたてて、仲良しでも関係が悪いわけでもない、そんな家族だったはずだ。
そう思っていた。
それなのに…。
母が“こうなって” わかった事。
姉妹と言えど、ひとりひとり
親と過ごしてきた日々の歴史、その関係性や親への思いの違い。
募りに募った、感情が一気に噴き出し、表面に見えだすと
どうにも、おさまりがつかない事が、家族間で次々に出てきた。
末娘であり、海外に出てしまったわたしには”家族のなか“で
意見する事を許されぬ状況だった。
「日本に完全帰国するんだったらいいけど、中途半端に意見しないでほしい」
当然の事なのかもしれない。
それでも、その言葉は冷たく
わたしには、もう帰る家も
家族も居なくなってしまったような気がした。
Spice Girls「Mama」(1997)
母を知り、母を許せたのに。
さぁ、これから家族みんなで母を支えていこう・・・なはずが。
介護という現実を前に、思いもよらぬ出来事や悩みの連続を体験する事に。
でも、それまで見聞きしてでしかわからなかった
介護や家族問題に、自分が身を置いた時
同じ状況や環境の方、そして”そこ”に関わってくれる方たちの存在の有難さを知った。
わたしは、何が出来るのだろうか…自問し続けていた。
▶⑥親子以上の親子を読む
TORIA (o ̄∇ ̄)/