曽祖父の後ろの女性は、私にとって曽祖父の母、高祖母(こうそぼ)にあたる人の出生年は分かりません。彼らは神戸・湊川で塩問屋をしていました。
神戸は港町として知られています。1868年(慶応3年)に開港し、外人居留地もできました。1874年(明治7年)には神戸・大阪間に鉄道が開通して、1889(明治22年)には神戸港が輸入額で横浜港を越え日本一になりました。塩問屋の商売も繁盛していたそうです。外人居留地ができたこともあってでしょうか、祖父は英語を習っていたそうです。この時代にしてはめずらしく一人っ子でした。たいそう可愛がられていたと聞いています。この写真からも神戸の良い時代の幸せな家庭であったことが伝わってきます。しかしながら1945年の神戸大空襲で家もなくなり、生き残ったのは、出兵中であった祖父と写真向かって左側の曽祖母だけでした。第二次世界大戦が終わり、出兵から祖父が帰ってきてまもなく曽祖母も熱病で死亡ました。空襲で全てなくなったので、祖父は神戸の田舎に疎開して祖母と結婚しました。空襲で親や家を失ったことは淡々と話していた祖父ですが、自分の出兵中のことを話していた時に急にはげしく泣き出したのを子供心に覚えています。
この小さな家族のライフストーリーから色々なことを考えさせられます。国と国との戦いはこの時代にも続いています。今の私の状況は、祖父たちの時代とは違い国の命令ではなく個人で何をするかある程度の自由があります。平和のために何ができるでしょうか。この家族に会うことができるなら、何を話せるでしょうか。100年前の日本人にはできなかった旅客機で自由に移動できて、ネパールという国で彼らが見られなかった景色を見て、全く違う文化の中で生活しています。私はどこに住んでいても平和のために貢献できる人でいたい思います。言葉は「剣」に例えられることがあります。日本語という言葉を争いのためでなく、人と人とをつなぐ道具として上手に使えるようにお手伝いしたいと思っています。
Cefetalkを始めて1ヶ月ほど経ちました。Lessonを受けてくださった皆さまいつもありがとうございます。これからも自分の教えるスキルを向上させて参ります。まだお会いしていない、この記事を読んでくださっている皆様もこれからどうぞよろしくお願いいたします。
我是日語老師Kiyoka。今天的主題是100多年前的日本人,我的祖先。這張照片是1921年在神戶拍的。中間拿着口琴的少年(5歲)是我的爺爺,生於1916年,大正5年。祖父旁邊的曾祖父大概是1879年生,明治12年生。曾祖父後面的女人,對我來說,不知道相當於曾祖父的母親、高祖母的人的出生年月。他們在神戶·朱川開了一家鹽批發店。
大正時代の小学生*祖父と曽祖父